中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休み致します。
8月8日(土曜日)〜8月16日(日曜日)
中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みします。
8月6日(土曜日)~8月21日(日曜日)
この間のお問い合わせ等は、メール・FAX(0422-43-8609)で承ります。
中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みします。
8月11日(金曜日)~8月20日(日曜日)
この間のお問い合わせ等は、メール・FAX(0422-43-8609)で承ります。
暑中お見舞い申し上げます。
中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みいたします。
8月10日(土)~8月18日(日)
この間のお問い合わせ等は、FAX・メールで承ります。
FAX 0422-43-8609
E-mail info@wasai-kinuta.com
その頃は女店員も男の店員も全部きものです。男のきもの姿で一番スタイルの良かったのは、株屋の番頭。その次は三越の店員で、第三番目は横浜の商館番頭の和服スタイルです。商館番頭というのは、外人客相手に日本の名品を売る商店の番頭さん。お召しの着流しで、結城の二枚着ぐらい着て、お召しに縫紋がのぞきになって、綴の帯を締めて、それはまあ素晴しかった。
今の東急、昔の白木屋から電車通り越した向側の千代田橋から開運僑寄った方面は全部株屋でした。株屋さんのごく良い番頭になると、一つ胴裏で通し裏になっている。裾回しだけ焦茶で雲形に染めてあって、胴裏は真白なのです。随分ぜいたくなものを着ていました。それと男物でも付比翼。あの時分はシャツの良いのが無かったから、胴着を着たり、長襦袢を着たりした。その衿が二重衿なんですね。片一方が黒の琥珀とか八丈になっていて、片方が更紗羽二重なんかになっている。両方使えるという二重衿を男がやっていた。
大正時代は職人の腕の良いのがまだ沢山のこってました。紺屋にしてもその通り、刺繍屋にしてもその通り。三越は職人の中の職人という様な素晴しい腕でなければ務まらない。職方になれなかったのです。今の八重洲口通りが昔は北槇町で、そこには一流の職人たちが集っていた。「京忠」と云って江戸褄専門の染物屋がありました。「伊勢仁」と云って印物を専門に染める染物屋がありました。それから「鳥光」と云って刺繍のものすごい左甚五郎腕の刺繍屋もいた。これは皆三越出入りの職人なのです。こうした職人をかかえて三越は最高のものを作っていたわけなのです。 当時丸帯に20円の正札をつけておいて、2ヶ月も3ヶ月も売れないから、0をひとつ付け加えて200円に直したら、その日の内に売れたという語がある。これは実際本当か嘘かわかりませんが、その位ぜいたくな物が三越では売れたということなのです。 関東大震災(大正12 年)の時、私は21 で丁雅奉公を卒業したのですが、それから10 年位は職人をしなければ和裁の道の達人にはなれない。
京都、大阪、神戸と仕事がみんな違う。それであちらに一年、こちらに2年と旅から旅の、食ったり食わなかったりして、人の仕事を盗んで東京へ帰ってくる。漸く世帯を持って和裁屋を始められたわけです。
その当時のきものは、今の人には想像もつかないと思います。お花見の時だけ素袷といって今の現在のきものです。後は桜の花が咲く時でもきものは全部2枚着に決っていた。男物の下着は通しだけれど、女物は胴抜きの下着と云ってとても凝った物で揃えたのです。ですから同じきものでも、今はせいぜい着たところで、きものと長襦袢と帯でしょう。昔は2枚着です。それにパンツをはかず皆お腰です。湯もじと腰巻きと。
昭和 7 年 12 月の白木屋百貨店の大火で、女店員に大勢の犠牲車が出ました。女店員は和服で前が拡がってしまう。救命の綱を持っていた手で隠すから支え切れなくて、頭が重いから逆さになってサーツと下に落ちて、皆ザクロみたいになってしまったのです。この時からズロースとかパンツをはくようになったと云われます。
レースの袖といいますのも、昔の袖で、電車などの吊革につかまると、脇の毛が見えるからそれを隠すために出来たのだと云われています。
聖徳太子が亡くなられてから90年経った710年になると、都は平城に移されます。いわゆる奈良時代と我々が呼ぶ時代です。 奈良には大仏様が居られます。この大仏様は743年聖武天皇がお命じになって作られたもので、それから10年経った752年に開眼供養が営なまれます。
この大仏様は五丈五尺五寸という大きいもので、台座までの寸法は17メートルといわれます。
こんな大きな仏様と、それの入るお寺ですから、その工事は大変です。この前の戦争の時のように、全国から男性を召集して奈良へ呼び寄せたのです。日本国中から集められた人間が8千人といわれています。その8千人の3分の1は労働者、中級の人間が 3 分の 1、あとは全部官吏だそうです。この 8 千人もの人が全部、国の食糧を食べ、国から支給されるきものを着て暮したわけです、それも10年間も。
そうしますと、私が考えるに、8 千人の人間がいると、単衣と袷と、寒くなると綿入れ、当時の綿入れというのは真綿しかありません。木綿綿は徳川時代の中期以後じゃないと出来ない。昔の庶民、身分の低い者の綿入れは、楮の木を石でたたいてなめした物を、紙と紙の間にはさんで、麻の袷のきものの中へこれを入れて、綿入れと称したものだそうです。
年に3回きものを召集した人たちに支給しなければならない。それだと2万4千着のきものをどうして縫ったかということになる。
今のきものと違って、直線裁ちではありません。中級の人は大袖といって、袖山から口まで元禄袖の様になったきものを着る。それから一番身分の低い者、労働者はモッコかついだり、石をかついだり、鉄をかついだりするから衣類の痛みが早い。だから10 年問同じきものであったとは考えられない。現に正倉院には待遇改善を願った書類が残されていて、「支給されたきものは洗ってあるといわれるが、汗臭くてとても我慢できない」などという言葉があるそうです。
2 万4 千枚のきものを縫い上げるのにどの位の人と時間がかかったか。腕は勿論良い人が集って縫ったに違いない、帰化人やそれを習った人達でしょうね。1日10時間働いて一枚縫えたとします。これは身分の低い人の易しいもの、身分の高い人のむつかしいものを考えて平均したらの話ですが。30人の縫手がかかって月に900枚、27ヶ月、2年と3ヶ月かかる。休みはありません。 ところで、これは私の推量にしか過ぎません。衣服史、服飾史をいろいろ読んでは見ましたが、染色のこと、織物のことは良く出て来る。けれど、その当時縫い方はどうであったのか、ちっとも出てこない。染め、織りだけではきものではありません。
裁縫の技術史というものが抜けているわけです。実際に縫っている私達が研究して、発表する以外にない。ま、それはそれとしまして。
紋がついている着物を仕立てる時、正確に形を合わせるために、紋の形を調べる時があります。
家紋の種類は現在では2万5千以上あると言われているので、名前を調べるだけでも一苦労です。(まず、名前がわからないことが多いです。)
パッと見ると同じように見えても、ちょっとした部分が違う紋が結構あります。名前も独特ですし、デザイン的にも、とても優れていると思います。
家紋を調べてみると、ご自分のルーツが分かるかもしれません。
小学6年生になる娘の保護者懇談会で、早くも卒業式の服装についてお話がありました。
娘が通う小学校でも、袴の着用が増えています。和裁に携わり、着物を愛する身としては嬉しいのですが、問題も多いようです。
レンタルの間口は広がっており、選択肢は増えたと感じますが、その一方で着付けの問題は解決していません。
限られたエリアの美容院は早朝から予約が埋まって、中にはようやくとれた予約が朝5時台などという話も聞きます。それでは大変と家で着られるワンタッチ袴をレンタルしたものの、説明ほど簡単ではなかったり、綺麗に着付けが仕上がらないことも。
大変な思いをしたのに、そのせいで気分が悪くなったり、慣れない袴で着崩れてしまったりと、せっかくの式典が残念な思い出になってしまうこともあります。
学校によっては着物・袴着用を禁止する動きもありますが、それはそれで寂しいです。そうならないようにできることがないか、「着付けちょこっとお直しお助け隊」など申し出てみようかと考えています。
きものと密接な関係のある帯について話してみたいと思います。
帯の元祖だと云われているのは倭文機帯です。巾が一寸前後、長さが6~7尺ほどで、これを回して結んでいたわけです。
奈良時代になると、腰帯が使用される。これは男子用ですね。聖徳太子の御画像にある帯。革製で金銀や石の飾りをつけてあったようです。これは正装の時の帯で、略装、平常の場合は織物の帯を用いていたようです。正倉院に遺っている黒、紫、青、紅、黄などの「かんはた」がこれだろうと云われている。
豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣していた頃、朝鮮の捕虜の中に組紐の職人が混じっていて、組紐を献上した。これが名護屋帯と云われて大流行するわけです。細紐ですね、帯というより。
帯が発達するのは江戸も寛永、延宝の頃からです。きものも、徳川時代初期までは、袂の八ツが明いておりません。女のきものでも男のどてらと同様に袖がついている。帯の発達で帯巾が広くなると、袖がつれる。つれますから八ツをほどいて振りがつき、身八ツが明くようになったわけです。
広巾帯が流行するのは、歌舞伎役者の舞台姿からだと云われています。上村吉弥や水木辰之助が広巾の帯を舞台で締めて流行らせたのがその元。吉弥結び、水木結び、色々の名前の帯が出来るのです。
現在でも結ばれているお太鼓結びは、文化 10 年(1813)に、江戸の亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者さんが結んだ帯の型を受継いでいるのです。
大正時代の帯は丸帯と腹合帯しかありません。腹合帯は昼夜帯、鯨帯ともいわれた帯。関東大震災後になると、名古屋帯が出回って来る。名古屋の学校の先生が自分用に作ったのを、商売人が目をつけて売り出したと云われています。これはあまり上等な人は締めなかった。一杯飲屋のおねえさんか、すき焼きの店のおねえさんが締める帯が名古屋帯。今だと名古屋帯という側は売ってます、共で太鼓まで三尺位の返しになってね。出て来た当時は名古屋帯という側はない。片側だけしか売ってませんから、名古屋を作る時は別布を三尺買って貰うのです、お客様に。そうしてお太鼓の裏側に、それを腹合せの部分だけ別布を使う。それで半巾の頭から二尺五寸を中心にして左右に五寸を明けてポケットを付けたのです。かくしを。ということは、今はお金の価値が落ちて 1万円札が氾濫していますが、昔はギザ1枚50銭のチップ貰ったら大変なものでした。それをおねえさんたちはちょいちょい貰うため、がま口をいちいち開けて入れられません。そのため昔は名古屋帯には必ずポケットがついていました。
今度の戦争でくるりと変ると、名古屋帯そのものが新規に生まれる時代になって来たのです。名古屋帯の始まりというのは、簡略化を狙った、ついでに作った帯なのです。それが今日これだけ発達して来た。
今もごく大きな婚礼になりますと、丸帯というものを使います。昔は嫁入りの支度には必ず丸帯を使ったものです。今は袋帯ですね。袋帯というのはズック(消防に使うホース)の様に全部通しに織ったものです。両端ミシン掛けたのは袋じゃないけれど、両端ミシン掛けたら腹合帯なんだけれど袋帯といって、大手を振っている。本来なら袋帯じゃありません。
応神天皇の時代(281 年から 312 年の間天皇位<日本書紀>)になると、朝鮮半島から帰化人がどんどん入ってくる。どうして多くの帰化人が入ったのか。大陸では中国が皇帝制を広めて、自分の国を広げていた。国を推持するためには国を大きくして、その土地から利益をあげなければならない。朝鮮半島はその時どういう状態にあったかといいますと、高句麗、新羅、百済の三国に分かれていた。この三つの国は仲が悪くて、年中戦をしていたといっても良いぐらいで、しょっちゅう勢力争いをしていた。それに中国が勢力を拡大してきたから動乱につぐ動乱ですから、国を捨てて逃げ出す人も大勢になる。手に職を持っている人が、日本にゆけば好遇されることはもうその頃皆知っていたでしょうから、日本へ渡ってくる。
応神天皇の時代になると、同盟関係にあった百済から助けてくれと云ってきたので、日本軍が半島へ出兵します。この時から益々帰化人が多くなります。
百済王が真毛津という女の職人を応神天皇に贈ってきたのはその頃のことです。彼女は「縫衣工女」と云われているから、裁縫が大変上手な人であったでしょうし、多くの門人も一緒に渡って来ています。その他にも、色々な技術の専門家がやって来て、着物を縫ったり、錦を織ったり、養蚕をしたりと大活躍するわけです。
ものすごい錦や素晴しい縫製のきものをこしらえて天皇に貢納するから、天皇は大変驚かれて、この様に真面目で、こんな素晴しい物を作るのは珍しい、異国人ではあるけれど、日本に帰化して長く仕えて欲しい、と云って名前を与えたわけです。
このようにして、日本の織物は益々発展しまして、着物というもの、これは二部式でしたが、これもぐんぐん発達してゆきます。 時が経ちまして、聖徳太子の時代になると、中国からも技術を持った人達がやって来るし、朝鮮半島からの帰化人も多くなる。
この時代は、仏教がめざましく布教される時でもあり、大陸の文化摂取の時でもあります。
聖徳太子が亡くなられたのは621年。世を去られた時、昔偉い人はお妃をたくさん可愛がっていられたのですが、その中でも特に愛しんでおられた「橘大郎女」という方がいます。この女性が推古天皇にお願いして、「仏教を今日まで広めたのは聖徳太子のお蔭ですから、聖徳太子が極楽往生なされるように、曼陀羅をお作りしたい」というので作られたのが、今中宮寺に遺っている、国宝の「天寿国繍帳」です。
推古天皇は大郎女の願いを殊の他喜ばれて、太子に仕えていた女官たち、釆女たちに命じられて出来上ったわけです。