古い着物をほどいて何かに作り変えようと思い、ほどくついでに仕立て方を見ました。
きれいで感心する時もあれば、これでいいのだろうかとびっくりすることもあります。
自分が仕立てた着物をいつかほどかれる時、感心してもらえるような仕事をしたいです。
表から見えないところだからと思っていると大変なことになります。
お母様が着た着物・長襦袢を、娘さんの寸法に合わせて仕立て直したいという
ご依頼が増えてきました。
昔の着物でも仕立て直せば、いつまでも着ることができるというのも、
和服の魅力の一つかと思います。
中沢和裁師範学舎で学び始めて2年半がたちました。
運針、くけの大切さを痛感しつつ、和裁の奥深さ、先人の知恵に感嘆するばかりです。
近頃はコロナ禍の影響で着物を着る機会も減っている事と思います。
一日も早く晴れの日を着物で楽しめる日が訪れる事を願いお仕立てしております。
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着物を着ることは、七五三や成人式といった特別な行事のときで、非日常的と感じていたからでしょうか、着物姿の自分を見たときはとても嬉しかったことをよく覚えています。
いつまでも思い出に残る着物を仕立てられるよう、和裁技能士を目指し、今春より学び始めました。
新しいことへの挑戦、緊張の毎日です。
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縫い代が起き上がってこない様に平らになる様に潰す事を、
和裁では、“ころす”と表現します。
「ころしが甘い」「全然しんでない」などと普通に会話しますが、
初めて聞いた時は、聞き慣れない言葉に驚いたものでした。
先日、娘の通う中学校で、年度末行事の百人一首大会が行われました。百首暗記から始まり、競技かるたアニメの視聴まで、毎日がかるた尽くしの3月でした。
そのアニメの中で、袴姿でかるたをするシーンがあるのですが、袴が行燈(あんどん=スカートタイプ)か?はたまた馬乗(=キュロットタイプ)か?と家族で話題になりました。それで少し調べてみると、百人一首の場合女性は行燈袴、男性は馬乗袴というのが基本のようでした。
女性が馬乗袴を着る機会はあるのかしら?という疑問がわいてきたので、さらに調査。
弓道は女性も馬乗袴を着用するようです。ただし、腰板はないものが好ましいとのことです。
それなら剣道も馬乗袴のはず!と見ていくと、ジャージ素材や内股にファスナー付など快適性や機能性も追求されているとわかり感心しました。
伝統的な行事や武道にはそれにふさわしい服装が求められますが、時代とともに快適性や機能性も考慮されながら「進化」してよいのかもしれませんね。
私事ながら、この度古希を迎えました。
「古希・古稀」とは中国の詩人杜甫の詩「人生七十古来稀也(70歳まで生きる人は古来より稀だった)」に由来しているそうです。正直なところ、自分が古希を迎えるなど考えたこともありませんでした。
今、ここにいる自分を振り返ってみると、確かに70年の月日を感じます。裁縫が得意な母、特に母方の祖母には私が6歳頃から、服作りの手ほどきを受けました。これがおもしろくて、家中のこけし人形とかフランス人形などに、身近にある紙切れや布切れを貼り合わせたり縫い合わせて服を作り、それらに着せて遊んでいました。
大人になってからは編み物と洋裁を学んだのですが、それらはやがて機械化され人手は要らないような時代が来ると思いました。日本の国に生まれ日本人であるという一つの運命が、我が国の民族衣裳であり、伝統的に手縫いで行われている和服作りの道を選んだのかもしれません。
上京後、偶然に井の頭線の電車の中で中沢和裁師範学舎の広告を見て、そこに必然性を感じたのです。
25歳で中沢和裁師範学舎に入門し、今日までの45年間を和裁一筋で歩んできました。そして今、三代目として後進に和裁の技術を教える立場になりました。
初代に入門のための面接を受けた際、応接間の和裁に関する蔵書の多さに感激したことを憶えています。和裁の技術指導の面では非常に厳しい初代でしたが、後々その蔵書の閲覧を快く認めてくれました。
明治時代の裁縫の教科書や、時代衣裳の着装、素材の基礎知識、しきたりと約束事、着物の意匠、自身が連載した「主婦の友」の和裁技術の連載記事、等々幅広い分野の資料がありました。折に触れその資料をめくり参考にし、実践してきました。そのおかげで、今は着物に関する幅広い知識が増えてきたように思います。
中沢和裁師範学舎の創設者で、私の師匠でもあった中沢〈本名は中路(なかじ)〉信義は、明治36年(1903)現在の千葉県鴨川市小湊の紺屋の長男として出生。
小湊は日蓮上人の出生地で、誕生寺の門前町として発展。家業の染物屋から着物仕立ての道を選び、三越呉服店専属和裁所の高橋友三郎氏に師事。修行後の昭和11年に満州に渡り、日本の租借地・大連に和裁所を開設。自社ビルも建て手広く経営していたものの終戦。抑留生活を経て昭和24年(1949)に帰国。
日中国交正常化の1972年に大連を再訪。かつての自社ビルは健在で、中国人がそのまま使用しており悔しい思いをしたとの事です。
その後、世田谷区北沢で和裁所を開き、昭和34年(1959)に現在地の吉祥寺に移転。当時は高度経済成長期であり、「岩戸景気」「いざなぎ景気」で個人消費が大幅に増え、仕立て業も多忙を極めたようです。
そういう中でも、伝統的技術の伝授の世界ですから当然ですが、師匠の教えは非常に厳しく、気を抜いた仕立てものには『何だこの仕立ては!』とその場でビリビリと縫い目を解かれてしまいます。また、伝統的な技術から外れたような仕立てをする同業者に対しては、歯に衣着せない物言いで、煙たがれたようです。
そんな恐い存在の師匠でしたが、こんな逸話があります。修行中は全員住み込みでしたので、修行後の夜遅く近くの銭湯に出かけます。ある暑い夜の銭湯帰り、私が師匠に冷たいトマトジュース缶を差し上げた事がありました。ご機嫌がよかったのか『おまえ、なかなか気が利くな!』と一万円札を下さったのです。今から45年ほど前の一万円ですから、驚くやら嬉しいやらでした。今思うと、千円札と間違えて渡したのではないかしら。
前野まち子
この春の褒章で、小関和裁師範学舎代表の小関友実氏が黄綬褒章を受けられました。小関氏は、中沢和裁師範学舎では私の一年先輩の兄弟子です。当時は男弟子が3人いましたが、小関氏は木場の貯木場で丸太を相手にしていたという方で、ある時浅草の呉服店で見かけた着物の美しさに心打たれて、23歳で中沢和裁師範学舎に弟子入り。
『着物を2枚縫わないとその日は寝かせてもらえない……10人弟子になっても1人か2人しか残らない。昔は師匠が鬼に見えましたね。』と述懐。その後独立し、三鷹市内で小関和裁師範学舎を開き後進の指導の傍ら、東京都技能士会連合会理事・全国和裁技能士会会長などを務め、めでたく今回の受章となりました。
先日、小関氏が中沢和裁師範学舎を訪れ師匠の仏壇と遺影に受章の報告をされ、その遺影の胸に飾られた紺綬褒章(師匠は昭和56年受章)を見て感極まったご様子でした。
前野まち子
このところ、男物の長着や羽織のお仕立て依頼が増えてきました。
今の傾向として、高身長で細めの体型に裄も長めということが言えます。通常の仕立て方ですと、身巾が広いために着づらくなります。それを解消するのには袖の「割り入れ」をお勧めしています。
以前、13代九重部屋(元横綱・千代の富士)の“力士の着物”を数多く手掛けた際に、身頃と袖に「割り(はぎ)」を入れていましたので、この方法はお勧めです。
特に先代の女将さんが着物に深い知識をお持ちでしたので、力士が着用した際に映えるような仕立て方を望まれて、細部まで指示を出し点検をされていました。それらがとても勉強になり、今も役に立っています。
つい先日、不二家のチョコ菓子「チョコまみれ」でお馴染みの可愛いキャラクターに、時津風部屋の幕内力士「豊山」が染められた反物を、女物の浴衣に仕立てるというご依頼がありました。
その柄の奇抜さに最初は何だろうと戸惑いましたが、弟子たちも大変面白がっていましたし、着たら周りの眼を引くことでしょう。江戸の昔からの庶民の“遊び心”が連綿と続いているように感じられます。
前野まち子