メーカーによって手縫いの絹糸のカード巻きは、糸の豆知識や教訓などが書かれています。
例えば『わすれなぐさいろ【勿忘草色】ドイツの伝説で「私を忘れないで」と投げ渡した花の色がこの色となり、
日本名もそのまま訳されました。』(都羽根)とあります。
勿忘草はやわらかい青紫系のかわいい花ですが、今の季節にふさわしくないですか?
着物を1枚仕立てると、40mのカード巻きを約1枚使います。
使い切るとカード巻きに書いてあることを読むことができて、ちょっと得した気分になります。
中沢和裁師範学舎は、下記の日程でお休みいたします。
4月29日(土)~5月7日(日)
この間のお問い合わせ等は、FAX・メールで承ります。
FAX 0422-43-8609
E-mail info@wasai-kinuta.com
先日、ショールのお仕立てがきました。
コートや羽織を仕立てた後、余った生地が長く残っていれば、ショールに仕立てる事ができます。
着物の生地には、捨てる部分がないことを改めて実感しました。余った生地があれば、
ぜひショールを仕立てて、おしゃれを楽しんでみてはいかがでしょうか。
私のいとこの娘が二十歳を迎え、その母親姉妹が約三十年前に着た振袖を今年の成人の日に着用しました。
母親が大切に残してきた振袖を着用することを「ママ振(ままふり)」と言うそうです。
聞き慣れない言葉ですが、振袖の準備の選択肢として増えているようです。
いろいろな想い出と一緒に譲り受けていくというのも素敵なことですね。
私もこの振袖の歴史に加わらせてもらえば良かったな…
AY
この度HPをリニューアルしました。
日々の仕事のことや、着物について、教室だよりにどんどんupしていきます。中沢和裁では、職業和裁、習い事コースの生徒を随時募集しております。
友達二人に子供が生まれたので、家にあった手ぬぐいや生地で甚平を作ってあげることにしました。
女の子には大きさと手触りが手ぬぐいと似ていた絞り柄の生地で製作。
男の子にはちょっと地味目な色の手ぬぐいで製作。寅年なので、衽の真ん中へんに、寅の絵をもってきました。
今年はお祭りや花火大会なども盛大に開催されるでしょうから、お子さんやお孫さんに作ってあげてはいかがでしょうか。
11月は七五三のお祝いがあるので、神社などでは子供たちのかわいい姿をみることがあります。
小さいお子さんの着物姿を見ると、微笑ましい気持ちになります。
だいぶ昔になりますが、自分の七五三を思い返すと、祖母に綺麗な着物を着せてもらって、ウキウキした気持ちや、いつもの自分とは違う姿に変身したような心持ちになったことを覚えています。千歳飴を持ってすました顔をして、妹と一緒に撮ってもらった写真も、ちゃんと覚えています。
自分が、着物に興味を持つきっかけの一つになったのだと思います。
七五三をきっかけに多くの人に着物を着てもらいたいと思います。
急に寒くなりましたが、着物を着るには丁度良い季節の訪れとも言えますね。
中沢和裁では例年になく七五三御祝い着の揚げ取りのお仕事をたくさんいただいていますが、みなさんの七五三の思い出とはどんなものですか。私の七歳の祝いの思い出は、七五三の当日まで一生懸命伸ばした髪を美容院で結ってお化粧をしてもらい、きれいな着物を着せてもらったのが嬉しかったことをよく憶えています。
和裁の修行を始めてから6年目のこと。ホテルニューオータニでの着物ショーで、自分が縫った三歳の被布をキッズモデルが着用して舞台を歩いているのを見た時です。我が子が七五三を迎えた気持ちになってしまい、思わず涙が出たことが忘れられません。キッズモデルが着た時ですらこうなのですから、本当に我が子が七五三を迎える時の感慨はひとしおなのでしょうね。
多くの方々の着物の入り口でもあり、節目である七五三の思い出が素晴らしいものになりますよう願っています。
洋子
七五三の祝着のお直しと、揚げ取りが最盛期を迎えています。
七五三行事というのは江戸時代にその原型ができあがり、三歳の男女児「紐落とし」、五歳の男児「袴着(はかまぎ)」、七歳の女児「帯解(おびとき)」に晴れ着を着せ、収穫祭としての「氏神の祭り」にあたる11月15日にお宮参りをさせるしきたりです。
子どもの成長の大切な節目に、氏神様に健やかな成長と守護を祈願するもので、「親心」そのものと言えるでしょう。
幼い子どもの晴れ着に揚げ取りをした様は、とても愛らしいものです。
さて、室町時代の中期になりますと、御存知の通り大乱が起ります。京の町の今で云えば山名町に山名宗全が本陣をかまえ、東に細川勝元が陣をかまえて争いを起したわけです。市街戦ですから、京都の町は火が消えたようにさびれてしまう。これが応仁の乱(1467年)です。
毎日毎日戦争をするために、神社仏閣、家屋敷ことごとく灰にしてしまったのです。こうなると食糧事情が悪くなるのは当り前で、天皇からお手当てを貰って暮していた公家は三度の御飯が食べられなくなる。皆、堺やその他食糧事情の良い所へ疎開するはめになるわけです。
京都のお土産で一番多いのが漬物。色々あるでしょう。これはこの大乱のため 10 年問も戦争したために、貯蔵の利く、持ち歩きの出来る便利な食べ物として「おこうこ」が発展したのだとも云われている。それが連綿と続いているわけですね。
10年間も続くこの大乱のおかげで、天皇からお手当てが貰えなくなったお公家さん達は、カヤをこわして着物にして着たという位、もうどん底の生活になってしまった。そうしますと、一番下にシャツのかわりに着ていた白の小袖が上衣になってくる。戦争はいつも同じで、この前の大戦の時もそう。一番上の良いものから食糧になってゆく。上から順番に脱いでゆけば最後に下着が残る。その残った下着の小袖が表衣化してくるわけです。
こうして戦さ戦さでお公家さんの力、天皇の力もどんどん無くなって、武家の時代になります。天皇や公家は財力が無いから、昔のままの衣裳生活は推持出来なくなります。裳や袴をつけなくても公の場で通用するようになる。こうして小袖の時代が始まります。
桃山時代に作られた衣服は大変豪華で、徳川時代以上のものが多い。刺繍はしてある、摺箔もこの時代から発達している、箔と刺繍と金銀サンゴまで使った豪華絢燗な衣裳が出来たのが桃山時代です。そして関ヶ原の合戦があって徳川時代に入るわけです。 小袖というのは初めは文字通り、袖口の小さい衣服で、礼服の大袖に対しての言葉でしたが、それが表衣化して来たのは先にも云った通り。十二単が式服化されると同時に、武家の力が大変強くなって、小袖が次第に晴着、公の場でも用いられるようになるわけです。これに打掛や腰巻をつけた立派な形式が出来上るのが武家の時代です。
繍箔、摺箔、絞りの技術に続いて、江戸時代になると染色が大いに発展します。皆さん御存知の友禅染。染色に一大革命をもたらした技法が出来る。
さて、室町時代から桃山時代を過ぎて江戸時代になりますと、身巾が狭くなります。それ迄は身巾は非常に広くて、つい丈です。女性は片膝を立てて座る、今から考えれば様の悪い格好をしていたわけですから、反対に身巾が広くなければならなかったとも云えます。それが徳川も元禄時代になると、身巾がつまってお引きずりになって、抜き衣紋をするようになる。女は内股で歩くようになります。お花を活ける、お茶を点てるという時には正座して、身巾が狭いため行儀良くしないとみっともないから女らしくなる。女らしくなったと同時にきものの良さというものが出て来たわけです。
徳川時代が過ぎまして、大政奉還によって明治大帝が政治をとられるようになると、世の中が変って来ます。何が変ったかというと舶来というものが入って来る。それ迄はきものを縫うことを裁縫と云いました。ところが外国からミシンが入って来て洋服を縫うようになる。洋裁と和裁に裁縫が分かれるわけです。昔は裁縫といえば和裁に決っていたのが、今、裁縫と云うだけでは洋裁か和裁かわからない。それにきものの時には衣更えといって、季節季節で折目正しい節があったのが、洋装になって無くなってしまった。今ある衣更えは、制服を着ている学生さんか役人だけでしよう。