花柳界というものがありました。花柳界の女性ほど折目正しい衣服をしていた人たちはないですね。ついこの間まで、私は花柳界の人達の仕事をしていたからわかる。私の人生の%はそういう生活で来ましたからね。昔の料理屋の仲居さん、あるいは芸者、いやしくなってお女郎さん、遊女にいたるまで、四季の折目がものすごく正しいのです。
一つの例をあげれば、芸者などとあなどりますけど、一番初めは仕込、そして半玉になり一本になって、ねえさんになり、看板がけになって一人前の芸者になる。五階級ある。五階級のきものは話したらきりがない程細かいものです。それに、暑かろうが寒かろうが○月○日になれば、着ても着なくても仕立替えをするのです。今の人みたいに、きものを一度縫うと、洗張りも何もしないで、10年も20年もおいておくようなことはない。そんなことするから、もう洗張屋は無くなってしまったのですね、仕立替えする人が居ないから。
昔の人はきものを着ようが着なかろうが、一年たったら全部縫い直すのが日本のきものなのです。まして花柳界のきものというのは、暑い八月に全部ほどいて洗張りをして、10月1日には、着ても着なくても座敷に全部つんで衣更えした。
折目が正しいのです。暑いからね、まだ3日位ゆかたで良い、なんていうのは素人はありますが、芸者は暑かろうが寒かろうが 10月1日になると、下に袷の長襦袢を着て、袷の帯を締めていた。ごく寒くなったからといっても、お客様の前に出る時には、重ね着のぬくぬくとしたものは昔の芸者は絶対着ません。
小さい12~3歳の時から仕込まれる。歩き方が悪ければ、こうもり傘でたたかれるという様な、歩くこと迄年季を込められたんですから、作法というものはものすごい。きものに対する折目は正しかったものです。
私は芳町と新橋の芸者さんの良い得意を沢山持ってまして、新宿に昭和3年頃世帯持ってた。お座敷がかかってお座敷へ出るのに「親方一寸来てくれ」とお呼びがかかる。急いで行ってみると、江戸褄を着てる芸者が「一寸見てちょうだい」。見ると長襦袢の衿の繰越しが少ない、とシワが出来る。なぜシワが出来るかと云うと、きものと長襦袢との接合が悪いからです。長襦袢にも勿論繰越しはつけるのですが、長襦袢ときものの生地の合うか合わないで、シワが出来るかうまく納まるかが決まる。また長襦袢の肩に入れる繰越しを付けなければ、ちゃんと重なることもある。そういう苦労も花柳界の仕事をしてるとわかります。
一段格が下ってお女郎さん。吉原とか洲崎とか千住、品川、板橋とかにあった。そこも折目正しい、きものの移り変りには。お女郎さんは金でしばられているから、廊主と云って女郎屋の主人が指図して、時季~の移り変りのきものを着るのです。娼妓になった年は一年間ピンクの襦子の衿を掛ける。打掛に一目オトシで。これを「掛け」と云います。初見世で、初めて堅気から女郎になった人はピンクの衿を1年かけると、今度は黒襦子に変ります。黒襦子を3年掛けると今度は紫に変ります。紫はお部屋のこやしと云って、一番すれっからしの女郎なのです。
この様に昔の衣裳は千差万別ありました。
明治 33 年に三井呉服店が三越になりました。その時に今のライオンのある建物が建ったわけです。私が仕立屋へ小僧にいったのが大正4年ですから、その数年前です。日本橋が架って開通式があったのが明治45年の5月です。私が小僧にいった前の年に、東京駅(昔は東京駅と云わず中央駅と云いました)が原っぱの中に出来た。東京駅と万世橋の問の高架工事もその頃やっていました。
三井呉服店が三越百貨店になった時、「今日は三越、明日は歌舞伎」と云った三越の宣伝文がもてはやされた。今は百貨店は皆、互角の力があります。三越でなければという商品は一つもない。高島屋でも松坂屋でも松屋でもどこへ行っても同じわけです。
その時分は天下の三越。ごく良いものは全部三越しかないものだと思って、お客様は三越しか買物に行かなかったのです。
花柳界でも新橋、赤坂の一流の姐さんの出のきものは別染でもって全部三越。それから女学校の制服があります。跡見女学校と、矢羽根の実践女学校。この二つは絶対三越で誂えたものです。
跡見の方は紫に黒がかかった跡見色の、女の子のきものにはもってこいの木綿と紡績の糸を交えた、一寸光のあるきものです。
実践女学校の方は、小さい一寸位の矢羽根模様。それが全部三越ですよ、誂えるの。良く縫ったものです。小僧の時分。