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着物の流れ

  • 奈良時代のこと

    2017.03.6

    聖徳太子が亡くなられてから90年経った710年になると、都は平城に移されます。いわゆる奈良時代と我々が呼ぶ時代です。 奈良には大仏様が居られます。この大仏様は743年聖武天皇がお命じになって作られたもので、それから10年経った752年に開眼供養が営なまれます。
    この大仏様は五丈五尺五寸という大きいもので、台座までの寸法は17メートルといわれます。
    こんな大きな仏様と、それの入るお寺ですから、その工事は大変です。この前の戦争の時のように、全国から男性を召集して奈良へ呼び寄せたのです。日本国中から集められた人間が8千人といわれています。その8千人の3分の1は労働者、中級の人間が 3 分の 1、あとは全部官吏だそうです。この 8 千人もの人が全部、国の食糧を食べ、国から支給されるきものを着て暮したわけです、それも10年間も。
    そうしますと、私が考えるに、8 千人の人間がいると、単衣と袷と、寒くなると綿入れ、当時の綿入れというのは真綿しかありません。木綿綿は徳川時代の中期以後じゃないと出来ない。昔の庶民、身分の低い者の綿入れは、楮の木を石でたたいてなめした物を、紙と紙の間にはさんで、麻の袷のきものの中へこれを入れて、綿入れと称したものだそうです。
    年に3回きものを召集した人たちに支給しなければならない。それだと2万4千着のきものをどうして縫ったかということになる。
    今のきものと違って、直線裁ちではありません。中級の人は大袖といって、袖山から口まで元禄袖の様になったきものを着る。それから一番身分の低い者、労働者はモッコかついだり、石をかついだり、鉄をかついだりするから衣類の痛みが早い。だから10 年問同じきものであったとは考えられない。現に正倉院には待遇改善を願った書類が残されていて、「支給されたきものは洗ってあるといわれるが、汗臭くてとても我慢できない」などという言葉があるそうです。
    2 万4 千枚のきものを縫い上げるのにどの位の人と時間がかかったか。腕は勿論良い人が集って縫ったに違いない、帰化人やそれを習った人達でしょうね。1日10時間働いて一枚縫えたとします。これは身分の低い人の易しいもの、身分の高い人のむつかしいものを考えて平均したらの話ですが。30人の縫手がかかって月に900枚、27ヶ月、2年と3ヶ月かかる。休みはありません。 ところで、これは私の推量にしか過ぎません。衣服史、服飾史をいろいろ読んでは見ましたが、染色のこと、織物のことは良く出て来る。けれど、その当時縫い方はどうであったのか、ちっとも出てこない。染め、織りだけではきものではありません。
    裁縫の技術史というものが抜けているわけです。実際に縫っている私達が研究して、発表する以外にない。ま、それはそれとしまして。

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