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着物の流れ

  • 帯のこと

    2017.03.6

    きものと密接な関係のある帯について話してみたいと思います。
    帯の元祖だと云われているのは倭文機帯です。巾が一寸前後、長さが6~7尺ほどで、これを回して結んでいたわけです。
    奈良時代になると、腰帯が使用される。これは男子用ですね。聖徳太子の御画像にある帯。革製で金銀や石の飾りをつけてあったようです。これは正装の時の帯で、略装、平常の場合は織物の帯を用いていたようです。正倉院に遺っている黒、紫、青、紅、黄などの「かんはた」がこれだろうと云われている。
    豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣していた頃、朝鮮の捕虜の中に組紐の職人が混じっていて、組紐を献上した。これが名護屋帯と云われて大流行するわけです。細紐ですね、帯というより。
    帯が発達するのは江戸も寛永、延宝の頃からです。きものも、徳川時代初期までは、袂の八ツが明いておりません。女のきものでも男のどてらと同様に袖がついている。帯の発達で帯巾が広くなると、袖がつれる。つれますから八ツをほどいて振りがつき、身八ツが明くようになったわけです。
    広巾帯が流行するのは、歌舞伎役者の舞台姿からだと云われています。上村吉弥や水木辰之助が広巾の帯を舞台で締めて流行らせたのがその元。吉弥結び、水木結び、色々の名前の帯が出来るのです。
    現在でも結ばれているお太鼓結びは、文化 10 年(1813)に、江戸の亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者さんが結んだ帯の型を受継いでいるのです。
    大正時代の帯は丸帯と腹合帯しかありません。腹合帯は昼夜帯、鯨帯ともいわれた帯。関東大震災後になると、名古屋帯が出回って来る。名古屋の学校の先生が自分用に作ったのを、商売人が目をつけて売り出したと云われています。これはあまり上等な人は締めなかった。一杯飲屋のおねえさんか、すき焼きの店のおねえさんが締める帯が名古屋帯。今だと名古屋帯という側は売ってます、共で太鼓まで三尺位の返しになってね。出て来た当時は名古屋帯という側はない。片側だけしか売ってませんから、名古屋を作る時は別布を三尺買って貰うのです、お客様に。そうしてお太鼓の裏側に、それを腹合せの部分だけ別布を使う。それで半巾の頭から二尺五寸を中心にして左右に五寸を明けてポケットを付けたのです。かくしを。ということは、今はお金の価値が落ちて 1万円札が氾濫していますが、昔はギザ1枚50銭のチップ貰ったら大変なものでした。それをおねえさんたちはちょいちょい貰うため、がま口をいちいち開けて入れられません。そのため昔は名古屋帯には必ずポケットがついていました。
    今度の戦争でくるりと変ると、名古屋帯そのものが新規に生まれる時代になって来たのです。名古屋帯の始まりというのは、簡略化を狙った、ついでに作った帯なのです。それが今日これだけ発達して来た。
    今もごく大きな婚礼になりますと、丸帯というものを使います。昔は嫁入りの支度には必ず丸帯を使ったものです。今は袋帯ですね。袋帯というのはズック(消防に使うホース)の様に全部通しに織ったものです。両端ミシン掛けたのは袋じゃないけれど、両端ミシン掛けたら腹合帯なんだけれど袋帯といって、大手を振っている。本来なら袋帯じゃありません。

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